発達障害と、仕事と、受験と、時々不登校。生きづらい親子が自分達らしい生き方を見つけるには。

ADHD持ちの私と、程度は違えど同じ特性持ちの娘2人。上手くいかないことばかり、でも楽しく生きていきたい。そんな日々を綴ろうと思います。

不登校からの転校。

小学校低学年の次女は、学校生活で起きたある事件をきっかけに、登校することができなくなりました。

現在も、不登校真っ最中です。


元々明るく天真爛漫で、お友達が大好きで、学校が好きだった娘。ADHDという特性上、授業に集中することはなかなか難しかったけど、お勉強も好きで、頑張っていました。

学校側の『このくらいであれば普通級で問題ない』との判断で、普通級で過ごしておりました。


しかし、次女はやはり、普通級で過ごすには特段配慮が必要な部類であり、

今年度は介助員の先生も配置されなかったことから、全面的に担任の先生頼みでした。しかし担任の先生はまだお若く、経験に乏しい様子であり、娘が困ったときにフォローがされていない様子があったので、私は毎日、いつか何か起きるのではないか、と不安を抱えながら娘を送り出していました。もちろん担任の先生とはまめに連絡を取り、細かくお話していたつもりでした。


悪い予感は的中。娘は学校生活で起きたことがトラウマとなり、PTSDと抑うつ状態になりました。


娘に起きてしまったことを、当初学校側は非常に軽く考えており、きちんとした初期対応がされませんでした。残念なことに、娘の通っていた小学校は、今どき珍しいほどに発達障害を持つ生徒に対する体制が十分でなく、学校全体として理解が低かったのです。それが、娘の身に事件が起こったことで初めて明るみになりました。私が学校にかけあっても、学校の反応は糠に釘状態。仕方なく私は、藁にもすがる思いで、管轄の教育委員会、通院先の病院、県の教育指導機関など、様々な専門家に相談し、何とか次女のためにできることはないか探しました。仕事を長期的に休み、次女の看護に専念することにしたのです。そうしないと、私自身も共倒れしてしまいそうでした。


次女が泣きながら私に言ったことは、『本当は学校に行ってみんなとお勉強したいし、前みたいに楽しく過ごしたい。でもできない。それが苦しい。』

私は、死ぬほど辛い思いをした学校に、いつか戻らなければいけない、という思いが次女を苦しめているのではないか、と思いました。

だったら、転校しちゃえばいい。あんな辛い思いをした学校に、もう二度と行かなくていいんだよ。

そう話すと、次女の様子が少しずつ、ミリ単位ずつではありますが、穏やかに変化していきました。


不登校からの転校には賛否両論あるのは承知の上です。新しい学校に行き、また上手くいかなくなる可能性もあります。

けれど、今次女に必要なことは、環境を変えること。それしかないと思いました。


3校ほど、別の市町村の学校を見学しに行きました。

驚いたことに、学校が違えば、発達障害児に対する体制も理解も全く違うのです。同じ公立でも。

現在の学校よりもずっとずっと、娘を安心して通わせられそうな学校にめぐり逢うことができました。


現在も、娘は自宅療養をしながら、定期的な通院と、週1回の心理療法に通っています。

元気な日もあれば、死にたいと言って塞ぎこむ日もあり。それは仕方ないことなので、そういう日は無理をさせず、ゆっくり休ませることにしています。一進一退を繰り返しながら、時間はかかっても少しずつ、本来の彼女らしさが取り戻せたらいいなと思っています。